1. TOP
  2. 春光懇話会

春光懇話会のあゆみ

春光懇話会の沿革と歴史


1905年(明38)久原房之助が茨城県に日立鉱山を開山。久原鉱業の創業
1914年(大3)多角化による久原財閥の形成
1928年(昭3)鮎川義介が久原鉱業社長に就任
社名を日本産業株式会社(日産)に変更
1934年(昭9)日産木曜会発足
1937年(昭12)日産木曜会を日産懇話会と改称
日産の満州進出、満州重工業開発株式会社(満業)に改名
1945年(昭20)敗戦、財閥解体、満業解散

1962年(昭37)春光会発足、グループ再結集
1966年(昭41)東京日産懇話会設立
1971年(昭46)日産懇話会と改称、事務局新設
2002年(平14)春光懇話会と改称、現在に至る
久原翁と鮎川翁
久原翁(左)と鮎川翁 
【"春光"の名前の由来】
戦後の再結集の際、1962年(昭37)伊藤博文翁のご子息の伊藤文吉氏(元 日本鉱業社長)の元私邸(現 春光会館)に集い「春光会」を開いたのが始まりで、文吉氏の雅号「春光」に因んで名付けられました。

二人の経営者と「日産」のはじまり  1905年~

私たち春光グループのルーツを辿れば1905年(明38)にまでさかのぼります。創始者・久原房之助は同年、久原鉱業を設立し、日立鉱山の経営に着手します。その後急成長し、事業の多角化に乗り出します。日立製作所、日本汽船、大阪鉄工所、合同肥料などの数多くの会社経営を手がけ、コンツェルン形態へと発展させていきます。

しかし、第一次世界大戦後の慢性不況により、経営不振に陥ります。そこで、1928年(昭3)、久原鉱業の再建を同郷出身で義兄の鮎川義介に託します。鮎川は親戚などからの資金援助を受けて危機を凌ぐと共に、久原鉱業を持株会社に改組し、持株会社自体の株式を公開しました。 当時、持株会社の株式公開は画期的な考え方でした。また、社名を日本産業株式会社に改め、通称「日産」と呼びました。これが「日産」のはじまりです。 春光懇話会は永年「日産懇話会」の名称で親しまれてきましたが、「日産」の由来はここにあります。

日立鉱山大煙突
日立鉱山大煙突
久原房之助
久原房之助
久原房之助
1869年(明2)山口県萩に生まれる。
父は藤田組の創始者藤田伝三郎の次兄久原正三郎。
1889年(明22)慶応義塾大学卒業。一旦森村組に就職。その後実家である藤田組に入社。
1905年(明38)藤田組を辞し、茨城県の赤沢鉱山を買収。日立鉱山と改称し、久原鉱業創業。




1928年(昭3)衆議院議員に当選。逓信相に就任。
1931年(昭6)政友会幹事長に就任。
1939年(昭14)政友会総裁、内閣参議に就任。
 (終戦後、公職追放。)
1951年(昭26)政界に復帰。
鮎川義介
鮎川義介
鮎川義介
1880年(明13)山口県の氏族の家に生まれる。
母は井上馨の姪。
1903年(明36)東京帝国大学機械工学科卒業。芝浦製作所に勤務。
その後アメリカに渡り可鍛鋳鉄の製造技術を学ぶ。
1907年(明40)アメリカより帰国。
1910年(明43)戸畑鋳物を設立。
1926年(大15)久原房之助より事業経営を引き受ける。




1952年(昭27)中小企業助成会を設立。
1953年(昭28)参議院議員に当選。
1956年(昭31)中小企業政治連盟(中政連)結成、総裁に就任。

春光懇話会の原点  1932年~

1932年(昭7)以降、日産グループは急成長しました。日本水産、日本油脂、日産化学工業といった有力企業を傘下に吸収し、鮎川義介が肝いりで創設した戸畑鋳物(日立金属の前身)から日産自動車を派生させるなど、わずか10年足らずの間に、傘下会社数約150社を数える一大コンツェルンを形成するに至りました。

グループの急拡大に伴って、これらをまとめていくことが大きな課題となりました。1934年(昭9)、鮎川義介は懇談会組織「日産木曜会」を創設しました。グループ各社の幹部は日産木曜会を通じて交流を深めていきました。昭和12年にはこれを「日産懇話会」と改称し、より積極的に親睦と情報交換を進めました。横断的な人間関係を機軸にした企業集団づくりという春光懇話会の原点はここにあります。

日産館(日産コンツェルンの主要会社が入居)
日産館(日産コンツェルンの主要会社が入居)

日産本社の満州進出(移転)と撤退  1937年~

1937年(昭12)鮎川義介は、当時の満州国(現在の中国東北地方)からの要請を受ける形で満州産業開発5ヵ年計画の遂行のため、日産本社を満州に移転し満州重工業開発(満業)と社名変更し、計画実現に向け着手します。

しかしその後、日中戦争の激化による統制経済強化に伴い、開発計画が大きく変化していきます。鮎川義介は開発を断念して、1942年(昭17)に満州から撤退することになります。

戦後の混乱と再結集の機運  1945年~

第二次大戦後、財閥解体指令により満州重工業開発は解散しました。傘下各社は、それぞれ自社の経営再建に専念せざるを得ない状況になりました。その後、各社の経営が安定するにつれ、徐々に連携の機運が再び盛り上り、各地方でも旧「日産」グループ各社の支店営業所、関連会社が主体となり、地域懇話会がスタートしました。

1962年(昭37)、倉田主税の呼びかけで、旧日産コンツェルンの主要会社(13社)の社長が春光会館に集まり、定例会を約しました。これが「春光会」であり、ここに至って漸く春光グループの再結集がなりました。

倉田主税
倉田主税
【"春光"の名前の由来】
戦後の再結集の際、1962年(昭37)伊藤博文翁のご子息の伊藤文吉氏(元 日本鉱業社長)の元私邸(現 春光会館)に集い「春光会」を開いたのが始まりで、文吉氏の雅号「春光」に因んで名付けられました。

日産懇話会の誕生から春光懇話会まで  1966年~

その後の春光会において、関連会社も含めた新しいグループ関連組織の設立が検討されます。こうして、1966年(昭41)、会員会社72社が集う「東京日産懇話会」がスタートしました。これが、1971年(昭46)には「日産懇話会」に改称されました。これに前後して、地域懇話会も国内外各所で次々と結成されるとともに、結婚相談所「ファミリークラブ」を開設するなど、活動はますます活発になってきました。そして、2002年(平14)1月より、上部機関である春光会との連携強化を図るため、私どもの企業グループ名を「春光グループ」と決め、日産懇話会を「春光懇話会」と改称し、新たな発展を期しました。

久原鉱業の創業から約1世紀後の現在、春光懇話会は各地域毎の自発的は活動を通じて、各社のこころとこころのつながりをより強く、深いものとするために、今日も活動しています。

page top