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会報「Wave21」ダイジェスト

トップインタビュー


【会報139号(2月号)から抜粋】

 
JX日鉱日石開発社長 古関 信
 
生年月日 1946年7月23日
出身地 東京都
出身校 慶應義塾大学経済学部
略 歴 1969年 日本石油 入社
1998年 日本石油 産業燃料部長
2000年 日石三菱 LNG部長
2001年 日石三菱 ガス事業部長
2002年 新日本石油 取締役ガス事業部長
2004年 新日本石油 執行役員ガス事業部長
2005年 新日本石油開発 代表取締役副社長
2008年 新日本石油開発 代表取締役社長
2010年 JX日鉱日石開発 代表取締役社長
趣 味 写真、ゴルフ、温泉旅行


−社長のご出身は東京と伺っていますが、少年時代の思い出を教えてください。
 私は中野区の鷺宮で生まれ、学校もずっと東京でしたが、親が宮城県の多賀城市の出身でしたので、今でもそこが「田舎」です。子どものころは夏休みを多賀城で過ごすことが多く、川で遊んだり、田んぼのカカシを作ったりした思い出があります。偶然ですが、子どものころに遊んでいた砂押川という川は、今ではJX日鉱日石エネルギーの仙台製油所のちょうど真ん中に流れ込んでいるんです。治水もしっかりできていて、水も少なくなって、あそこで泳いだりして遊んでいたのが考えられないぐらいの変わりようですが、今でも懐かしいですね。
 また、宮城県に地縁をもつ者としては、先の東日本大震災には大変大きな衝撃を受けました。被災地の一日も早い復興をお祈り申し上げます。
 スポーツは、野球には小学校のころから比較的自信を持っていて、中学校から野球部に入ったんですが、途中で怪我をしてしまいました。また、当時サッカーは人気がなかったのですが、たまたま私が行っていた中学校でユース代表選ばれた先輩がいて、よく練習がてら遊んでくれたため、サッカーは比較的早く始めましたね。
 一方、観戦する方では、野球や相撲も人気がありましたが、何といってもプロレスが盛り上がっていました。力道山の全盛期は、私の家にはまだテレビがなくて、そば屋のテレビとか、西武新宿線沿いだったもので、西武新宿の駅前に街頭テレビがあって、そこに見に行った記憶があります。本当に真剣になって見ていましたね。

−大学を選ばれたいきさつは。
 大学は慶応なのですが、近所の沿線は早稲田色が強くて、子どものころは東伏見の早大プールで遊んだりしていたんですが、あえて慶応を選ぶのも面白いかなと。経済学部を選んだのは、父が法律関係の仕事をしていて、別のことをやりたいなというのがあり、魅力を感じました。勉強では、理科が苦手で、数学が好きだったこともありますね。

−大学時代の思い出はいかがですか。
 旅行によく行っていました。今でも時々そういう気持ちが顕在化することがあるのですが、放浪癖のようなものがあり、周遊券を買ったりして、卒業直前まで全国を回っていましたね。最後は、卒業試験の後、2週間程度九州を周遊しました。お金がなくなるぎりぎりまで「帰りたくない」という気持ちで、家に帰ったときは50円ぐらいしかポケットに入っていなかったと思います。行った場所、場所で人と話をしたりするのが好きで、今は写真が趣味ですが、当時は写真を撮るでもなく、あちこちフラフラしていましたね。

−日本石油に入社された理由は。
 あのころ、昭和44年は日本経済に非常に元気が出てきた時期で、そうした経済成長に自分も参加したい気持ちがありました。経済の真ん中で色々サポートしていくような仕事が面白いと思い、基幹産業の鉄や石油が選択肢に入ってきました。何をやるにしても鉄と石油は必要であり、広く世の中を見られると思いましたね。最終的には石油のほうが面白いと思って石油を選びました。

−入社当時のお仕事は。
 社長室という部署に配属され、調査の仕事を初めて与えられました。社長室とは、今でいう経営企画、経営会議の補佐機関にあたります。当時は高度成長の時代であったため、将来の製油所用地を確保することが一つの課題であり、建設省に行って新全国総合開発計画の中身を聞くなどしました。
 当時の仕事として印象に残っているのは、入社2年後の71年のニクソンショック時に、事務所の近くにあった共同通信へ情報を取りに行ったことです。ドルの金本位制が崩れ本格的な市場経済が始まる事件であり、1ドル=360円が形骸化して変動制に入るというときでした。時代の大きな動きの真っ只中にいることを肌で感じましたね。

−その後は、どのようなお仕事をされてきましたか。
 営業に出て、ずっと直売を担当しました。私は不幸なサラリーマン人生で、1回ニューヨークに駐在しただけで、それ以外はずっと東京なんです。ニューヨークに行った際もジェット燃料の直売を担当していました。当時、日本石油はテキサコとシェブロンと提携していて、テキサコはニューヨークに、シェブロンはサンフランシスコに会社があったため、アメリカ東西を行ったり来たりという仕事でしたね。アメリカには3年と少し駐在しました。

−アメリカでの勤務はいかがでしたか。
 当時は、日本のプレゼンスが一番高いときで、ロックフェラーセンターを三菱地所が買った時代でした。トヨタのレクサスが最初に出たときで、テキサコの人間が、もうメルセデスは要らない、レクサスでいいと言っていましたね。彼らも日本をリスペクトしてくれたし、日本石油という存在そのものも非常に重要な相手と見てくれたことを実感しました。そうしたことは、現地に行って実感するものなんですね。
 また、駐在時に多くの方々と親しくなったため、帰国後も仕事は非常にやりやすかったです。私を訪ねてきてくれる人も結構いました。仕事をきっかけに人と人の関係をつくることは大事と今でも思っていますので、日本人同士でもそうですが、日本人だけではなく、海外の人ともそういうふうにつき合えるというのが実感できたのは大きかったと思います。

−ご趣味はなんですか。
 写真が趣味です。別に芸術的なセンスはないのですが、写真というのは"面白い光の組み合わせ"を表現するものだと思います。自分の家の庭で撮った写真もすごく気に入った写真になるし、山などは日の出から始まって夕日まで1日ずっと光が変わっていくわけで、そういう瞬間をいろいろ考えながら掴んでいくのはとてもエキサイティングな作業です。
 ゴルフも好きですが、写真は一番のストレス解消です。シャッター速度や露出などをいろいろ考え、集中できますからね。ゴルフは自分の下手さ加減にストレスを感じることもありますし、別のことを考えることもありますが、写真を撮っているときは他のことを考えている暇がありません。
 山や花を撮ることが多いですが、特に上高地や白馬が好きですね。また、最近はもう少し人を撮りたいなとも思っています。子どもの表情、動きには、日の光の動きと同じように変化があり、実に面白い被写体だなと思っていまして、まだ私は孫がいないのですが、孫を楽しみにしています。
 また、自由な時間ができたときは、カメラを持って家内と温泉に行きます。家内とほかに趣味が合うものはないんですが、温泉だけはすぐに意気投合します。

−最後に、若い人たちへメッセージをお願いします。
 人と接触することによって自分を磨いていくことが非常に大事なことだと思っており、若手には「残業はほどほどにして、意識して、なるべく人とコミュニケーションを図ってくれ」と言っています。仲間同士はもちろん、外の人間ともコミュニケーションをできるだけ多くとり、そこからどれだけ吸収できたかという積み重ねで、自分の中身が深くもなり浅くもなるだろうと思うのです。
 営業をやっていると、時には非常にきつい人もいます。でも、そういう人ほど「吸収できるものが何かあるのではないか」と考えると、多少厳しいことを言われても、そこから自分が何かを吸収するんだということを考えていれば、いかようにもできます。人をネガティブにとらえるのでなく、常にポジティブに、この人の良さは何だろう、自分にないものはこういうところだよなと考えていると、それが自分のいい栄養になって、成長していくということを私自身が実感しています。
 また、私の個人的な感覚ですが、3月11日以降、若い人が何となく表に出さなかった意識を表に出すようになってきて、こんなんじゃだめだという意識が顕在化してきていると感じます。当社の若手社員も、会社主催のボランティアだけでなく、自発的に個人で三陸に行ってボランティアをしている若者がいるんです。そういうのを見ていると、最近の若者も捨てたものじゃない。特に最近、若手がしっかりしていると思いますね。



 
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